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滑り込んだぜプレーオフ [いわゆる日記]

hyoudou

11/24(日)は長いシーズンの最終戦。J2第42節鳥取戦。とりぎんバードスタジアムへ乗り込んでの戦い。ここで勝てばプレーオフ確定、引き分けでもかなり濃厚な状況です。PO圏内の長崎-徳島の直接対決もあるので4位になれる可能性もあり、そうなればPO準決勝をホームで戦えます。

こういう状況でうまくいかないのがJEF。

選手達の表情がちょっと硬いなあ、と思っていたら相手のシュートがDF高橋峻希にお尻にあたって方向が変わりこぼれたところを蹴り込まれて先制を許す。不運な失点。でも、引き分ければいいんだから。

ところが後半、武田英二郎(成長してましたな)のロビングのボールをゴール前で相手FWがうまくひろってシュート、あれれ入っちゃった。0-2。これはまずい。他会場ではどうも松本が1-0でリード。このままではPO圏外になる。ここで今シーズン終るなんて覚悟できていないよ。でも時間は非常にも過ぎていく。もどかしい攻撃。あー、ここで終る?

すみません、そういう気持ちになっていました。しかし、交代で投入された深井が何度も何度も切り返して強引にあげたクロス。これを森本が坊主頭ですらしてヘッド。ふわりと決まって1-2。まだいける!

そしてロスタイム。鳥取の選手達の時間稼ぎを考慮したロスタイムは6分。

健太郎がゴール前に放り込む、ケンペスが競ってこぼれたボールを、誰だ?兵働か?撃った!入った!同点だ!

さ、どうするまだロスタイムは4分くらい。攻める守る?答えは守る!そのまま試合終了。

これで12/1のPO準決勝に滑り込んだ。最終順位は昨年と同じく5位。対戦相手は徳島。やったろうじゃないか。


父を見送る その3 [いわゆる日記]

11月8日午後、移送車にて自宅到着。ここで明日まで過ごすことになる。父が築きあげた店だからこれでいいんだと思う。叔母が気を利かせてくれて枕花を用意してくれた。枕花?そう、これからこういう専門用語?としきたりの世界が怒濤のように押し寄せてくるのだ。今回の葬儀は私が「喪主」を勤めることになったが、これからの三日間、喪主さん喪主さんと声をかけられ怒濤の意思決定をしていくことになる。

姪が来春入社予定の葬儀社は業界二位の上場企業ご縁があって彼女がそこに入ることになった。父は生前、〇〇ちゃん(姪)の会社で葬式あげてくれ、と言っていたので葬儀社選びはすんなり。よく聞く話では病院から紹介されれるケースが多いそう。その場でどんどん決めていかないとならないから困る人も多いのだろうと思う。

その葬儀社の担当の方が来てくれた。フランチャイズ展開してるその会社のFCの会社の方。姪が本社に入社すると聞いて優しく接してくれた。まだ20代の若者だが非常に誠実に対応してくれた。彼と喪主である私と、家族から「葬儀委員長」と呼ばれることになる姪のトリオで通夜、葬儀に立ち向かう。

決めなければならないことをざっと挙げてみる。

・式場

・祭壇

・湯灌(ゆかん、と言い、遺体を洗うこと)の手配

・お寺さん手配(お礼をいくらにするか、戒名どうする)

・献花類(3~4種類あり、並び順もチェック要)

・香典御礼(そもそも何人来るかなど想像もつかない)

・受付等通夜/葬儀を手伝ってもらう人手配

・お礼状文面

・火葬にする手続き

・火葬場に行ってもらう人=初七日のメンバー

・その食事やらお礼

まだあったようにも思うがとにかくたくさんの事を一気に決めなければならない。当然、費用ともリンクしてるので今総額いくらくらいかも把握しなければならない。結婚式だと半年くらいでやることを二日くらいでやりきるのだから大変。ケチるとなにかと言われそうだし、あまり見栄を張っても費用がかさむし。自分でやれることも時間がないから任せざるを得ないし。その都度、葬儀社の担当、田中さんに相談。彼のアドバイスでてきぱきと決めることが出来た。彼も親族の葬儀を経験しその時にこの仕事に就くことを決めたそう。ここでボッタくることもできる業種だけど誠実に信頼関係を築きながら事を進めていくこの仕事、いい仕事かも。組織化されているので友引しか休みがない、なんて事はなくきちんと休日もとれるそうです。当然、成長産業だしね。

お寺さん手配が難問。我が家の宗派は?浄土真宗大谷派ということがわかるまで本家に聞いたりで結構時間かかりました。お墓もないし、お寺さんともつきあいないので葬儀社さんにご紹介をいただき通夜・葬儀の日程決定。さらに戒名(浄土真宗では法名ということもこのとき知りました)

怒濤の打ち合せを終え一息。このタイミングで通夜・葬儀の日時決まったので訃報連絡。この後、ご近所に訃報をもってご挨拶。ここでひとつ後悔することが。。。

父の銀行口座ですが、町内にある地銀にあります。実は銀行口座って名義人の死亡が確認されると凍結されてしまうのですね。通常は新聞に出る訃報とかで確認されるらしいので広告掲載を見合わせたのですが。。。訃報を町内会の方が配ってくれたのですがわざわざ金曜夜で閉店した銀行の警備員室にお持ちいただいてしまったそうで。これが月曜朝イチで見事に伝達され凍結されてしまいました。(もうひとつ別の銀行の口座は凍結されていなかった)これにより家族といえども自由にならなくなり正規の相続手続きをせねばならなくなりました。ここまで頭が回らなかったなあ。

そして夜、実家では三階、四階が今居住スペースですが、この日は一階のかつてお店だったスペースに父を寝かせその周りにマットを敷いて姉弟が寝ます。(「葬儀委員長」の姪も) 不思議な時間が過ぎていきます。


父を見送る その2 [いわゆる日記]

仕事用のPCを持ち帰っていたので在宅勤務を続けつつ病院通いの日々を過ごす。その間、義兄や私の家族もかわいいひ孫も父を見舞った。毎年一緒に旅行に行くほど仲の良い母方の兄弟に会える11月3日を無事に迎えることもできた。さすがにその晩は少し興奮して熱が出たそうだが状態は安定している。振替休日の11/4には交代でつきそっていた私たち姉弟もいったん解散、それぞれの生活に戻ることとなった。

そして11月8日(金)。たまたまその日は外出先直行で少しゆっくり家を出ようかというその時、母から電話が。「看護師さんが来て、家族を呼んだほうがいいと」「先生が来て・・呼吸してない」さすがに混乱してたんだろう。後で死亡診断書を見たらこの時点で亡くなっていたようだ。会社関係の連絡をして仕事は休み実家、病院へ向かう。

先週のこともあって大分覚悟はできていたからか淡々とした心持ち。新幹線車内では仕事のメールをこなす。そして実家のある岐阜駅着。病院へはバス便なんだがちょうどいい時間のバスがない。仕方なく接続していた東海道線の列車で一駅先の西岐阜駅へ。私が上京してからできた新設の駅でなじみがないがここからなら歩いて病院へ行けそう。のどかな駅からの道を歩きつつ、先に駆けつけた姉へ電話。病室はもう引き払われ霊安室にいるそうだ。亡くなった、という事がだんだん実感されてくる。

そして病院着。霊安室という所に入るのはこれがはじめて(あまり入りたくないところですよね)そこに亡くなった父がいた。細長い部屋の隅に母と叔母がいた。白い布を顔に掛けられた父。その時は苦しまずすーっと息を引き取ったと聞かされた。お疲れ様でした、というのがその時出た感情だった。

さて、その後をどうするか。先週あれだけ時間があったにも関わらず意外に肝心なことが決まってない。葬儀社は姪が来春就職する会社があるので父の意向もあってそこにすることは決まっていたが、葬儀までの間をどうやってすごすかなんてのは想像できてなかった。実家は狭い階段を三階まで上がらないといけないから葬祭場にとぼんやり思っていたが母や叔母の意向もあり急遽自宅へ搬送することに。とはいえ三階までは無理なので閉店した店のスペースにベッドを置くことになった。

病院の先生から最後の言葉と死亡診断書をいただき霊安室から移送車に。母と車内から外を見る。見慣れた街もなんだか違った景色に見える。

ここから通夜、告別式の準備が始まる。


父を見送る その1 [いわゆる日記]

去る11月8日父が亡くなった。このブログでもその時の事をまとめておこうと思う。以前から肝臓癌、大腸癌を患っていた。癌としての最初の検査結果を聞くために実家のある岐阜市の市民病院へと赴いた際、副院長を勤めておられた温厚な先生が肝臓や大腸の絵を書きながら丁寧に説明してくださった。「転移がなければ大丈夫。ひとつひとつ取っていきますから」

それから9年、その間に四国や西国、板東のお遍路を何度もしたり、趣味の釣りにカメラにとアクティブに活動してた父。その間も各所にできたポリープを取りながら。最近の医療はすごいなあと感心していたが、さすがに昨年の今頃に入院。年内もどうか、と言われたがお正月には自宅で子供、孫、ひ孫も集合して過ごすことができ、その後の事も話し合う事ができた。夏には実家の商売も終了。取引先たる私の勤務先も盛大なお別れ会を開いてくれた。

そして10月25日(月)勤務先に姉からの電話。先週から具合が悪く入院しているがその日の朝から昏睡状態になったとのこと。とるものとりあえず実家へ。(その前に自宅から数日ぶんの着替えやその時のための礼服等をスーツケースで送る。当日19:30までに出せば翌朝8:30には実家近くの営業所で受け取れるそう、ヤマト運輸さんスゴイ)

その昔、電報で「チチキトク スグカエレ」なんてのをもらって病院へ駆けつけるシーンを映画やドラマで見たが自分が今、まさにそうなってることに実感がない。

夜8:30すぎに病院着。とりあえず病室へ。呼びかけるも意識がない。もう少し早く来るべきだったか、とも思うが今朝までは元気だったらしいからいかんともしがたい。先生いわく多臓器不全状態なので今日明日かもと。でも、そばについてるわけにもいかず実家へ次姉と戻る。

実家にて遺影となる写真やら一緒に棺にいれてあげる趣味の品々を整理。父は黄綬褒章をいただいておりその時の記念写真がいいのだが、本人がどこへどうしまったのか見つからない。さんざん探したが見つからず。まあ、若干微笑んだ別の写真があったのでこれをキープ。

翌日、長姉も合流。姉弟三人で病室へ。

するとあれれ、ベッドの上でむっくり起きた父が目を開けてこちらを見ているではないか。「誰が来てるかわかる?」と質問すると姉の名を、私の名を呼びぶ。なんという復活ぶり。腹水がたまってるため水分が1日500㎖に制限されているので何度も水をくれ、と声を上げてる。昨日の昏睡状態とは雲泥の差。

そういえばその週末の11/3に母方の兄弟会があり彼らと会うことが出来る。私の家族も、ひ孫もその日前後に来る予定をしていた。母曰く、そこまでがんばろうとしてるのでは。

ここまで復活するとは思わなかったのでその日は母をいったん自宅に帰し入浴、昼寝させる。夜は姉弟で父のその日の復活ぶりや子供の頃の思い出話をしながら楽しく食事ができた。

ここで水曜日。ここからはたんたんと日が過ぎる。病室の計測器の数字がじわりじわりと弱ってることを伝えるけど、今日明日はないんじゃないかと思い始めた。


ホーム最終戦 プレーオフはまだか、の栃木戦 [いわゆる日記]

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トイレに貼ってあった紙です。

ホーム最終戦というのは順位も決まって今年もご苦労さん、みたいなのどかな雰囲気であることが多かったのですが、プレーオフが導入されてからは通過点みたいなものです。まあ、そうならなくするのが今年の目標だったのですが・・・

先週は父の葬儀でお休み。ようやく落ち着いてここへ来ることができました。次男君も部活がお休みでひさびさの参戦。

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決起集会にも参加し気分を盛り上げていきます。ゲームは前半ヨネからのクロスを佑昌がずばっと決めて先制。その後も攻めますが最後のシュートが決まらず。二点目が取れていたら・・の典型的な試合。結局、後半追いつかれてドロー。PO出場も決められず。

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試合後は今季で現役引退のGK櫛野亮の引退セレモニー

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オシムの頃の臨海でデカイ声でコーチングしてたのが懐かしい。ナビスコ制覇の瞬間はピッチで迎えられなかったけどフクアリの奇跡の時は櫛野がいた。ありがとう。こうやってJEFで引退できる選手、チームにとどまれる選手が増えてきたことが嬉しいです。

さあ、リーグはあと1試合。POが2試合。全部勝って掴もうJ1


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